運命の人は別れても再会できるか大解剖!そこでわかる一番大切な事!

自分と一生を添い遂げる人をよく「運命の人」という。

運命の人なら、何かの拍子に別れ別れになったとしても、いずれ再会する。
それが運命の人の特徴だし、だから一時、仲違いなどで別れたりしても心配ない、と。

でも、再会できた人がすべて運命の人だろうか?
別れて再会できたからといって、その人が自分にとって本当に大切で、一生のパートナーになってくれるという保証がついて回るのだろうか?

いろいろな人の体験やウンチク、そして実際の結末を大解剖して見てみた。
そうすると、確かにいろいろわかってくる。
その中で一番大切な事もあるようだ。

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別れても再会するからと言っていつも「運命の人」ではなかった?

運命の人、というとロマンチックな響きもある。

そして他に付き合った人と同じように別れたりしても、どこかすごく思いが残ったり、偶然すぎるチャンスで再会したりもする、というのが「運命の人」のいわば“定説”のようだ。

けれども多くの体験者の経験談をひもとくと、
「別れてたまたま再会できたら、その人が自分にとっての運命の人」
というのははっきり言って“早とちり”。

そもそもよく考えれば、
「別れたあと、何年もたって偶然再会した」
「なんとなく心に引っかかって、良くその人の顔や声を思い出した」
という相手はいくらでもいるはずだからだ。
考え事

「腐れ縁」の方がずっと多い?

逆にむしろそんな風に関係をまき直してくる中には次のような人も多い。

  1. 思い出したくないけれど、あまりにイヤすぎて思い出してしまう人。
    要するにトラウマ化しているような相手だ。
  2. 再会したけれど、もう完全冷却状態。
    こういうのは本当に偶然のまた偶然といえる。
  3. 再会の後、またつきあい始めたけれどあっという間に泡と消えた。
    こういうのを“腐れ縁”というべきだろうか?

一口に別れても再会する人、というとこういう人たちも当然含んでくる。
人によっては結婚相手、生涯の伴侶どころか、こういう人の方がずっと多い場合だってある。

これを果たしてすべて「運命の人」と言ってよいのだろうか?

本当に自分自身と一生のパートナーとなる人というのは、あくまでももっと深層的な含みがありそうだ。

表面的ないきさつだけで見てはならない

だから、考えようによっては上のパターン分けしてみて連想する方もいると思うけれど、中には自分にとってはとんでもない、因果の塊のような相手だっている。

たとえばその人から

  • いじめ抜かれた。
  • 心や体にとんでもない傷を負わされた。
  • そのほか、自分を不幸のどん底に陥れた。

こんな場合だってちょっと思い出しただけで「あるある」状態な人だっている。

ということは、運命の人が本当にいるとしても、別れて10年以上もたってから偶然が重なって再会したことがそのまま当人だという根拠になるわけではない。

人によってはそう思いたいのかもしれない。
けれども冷静になるべきところはそうあるべきだ。

そんな表面的な偶然が重なったり、あるいはなんとなく忘れがたかったりなど、ネガティブな気持ちの押すままにその人が忘れられない。
それだけで判断すべきではないのだ。

むしろ運命の人というのは、別に判断していくしかない。

別れなくても再会しなくても、それが運命の人ということも?

じゃあ、いったい何処で運命の人ということがわかるのか?
何処で見分ければ良いのか?

すべての人はこれを絶対に悩んでしまうはずだ。

でもよくよく考えてみよう。
そこで次のことがわかってくるはずだ。

自分にとって一生をともにするパートナーとの出会いは、出会い方という形ではない。
だから別れた後、偶然が重なるようにして再会などしてもおなじことになる。
それですぐ判定はできない。

多くの方たちの体験談を総括してみると、むしろ心の部分で確信しているようだ。

よく言われるのは、
離れていたり、別れてずいぶん経つのに不思議と心が通じ合っている”。
一緒にいるだけで凄く落ち着く、安心感がある”。

何年も音信不通になっていたりしたところ、再会する人たちも多い。
けれどその内、恐らくはその一握りの人がこういう特徴を備えている場合がある。

もちろん別れたり、またその後、再会することがなかったとしてもそうなる可能性はある。

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自分では判断できなかったり、徐々にわかってくることも

そしてもう一つ大切な事を語ってみよう。

自分自身にとって運命の人というのは、他の人とどこか違うような印象や、感触があるとは限らない。
むしろ付き合って結婚して、そして長々一緒に家族として生活していたとしても、他の人と一緒に住むのと大して変わらない、そういう場合もないとは限らない。

また、そこまで行かなくとも、交際スタート時とか結婚当初にはそんなに特別な存在とは思えなかった、ということもないわけではない。
それでいながら、年月が経つ内に徐々にお互いに惹かれ合う関係に進んでいく、というパターンだってある。

自己判断で運命の人かどうかを決めるのは傲慢?

蛇足になるけれど、今の婚活に比べて昔のお見合い結婚はこのパターンが圧倒的に多かったはずだ。

出会いも第三者による設定。
お互い好きか嫌いか、以前に家同士のつながりで、極端な話、お互いの家の都合で結婚が決められてしまう事もザラだった。

要するに出会いの出発時点で完全「アカの他人」同士だ。

それでもその結婚率の高さ、そして離婚率の低さは今より遙かに優秀だ。
婚礼
ということは、むしろ出会い当初で
「自分にとってあの人はもしかして運命の人?」
みたいに先走るのは、ある意味傲慢でしかないのかもしれない。

また同時に、こうした昔のお見合いでの出会いを今の婚活ではほとんどまるきり捨て去ってしまっているように思えてならない。

けれども、くどいようだが昔はそれで圧倒的多数の人たちが結婚を果たしていたし、今より遙かに結婚率も良かった。
それでいて結婚後、離婚する割合も今と比べれば遙かに小さい。

これを皆さんはどう考えるだろうか?

私は別れても再会するとか、出会いの当初で気持ちの通じ合いがあるとか、そういう短期的に運命の人というのを考えるのは間違いにすら思えてしまう。
いかがだろうか?

【おわりに】謙虚であることが大切?自分の判断や画策では及びがつかない部分も

出会いも別れも、そして再会もいろいろな形がある。

形だけではない。
気持ちの揺れ動きやつながり方だって同じだ。

それでも確かに運命の人というのはいる。
仮に結婚相手、それも一生添い遂げるパートナーという意味にくくっても、少なくとも大多数の人はそういうパートナーを得るからこそ家庭を営んでいくからだ。

でも、確かにそういう相手を見分けるとか確信する、という行為自体は人間の手ではどうしようもないものでもある。

それを
「こういう特徴があれば可能性がある」
とか、
「こういう人はそうに違いない」
という決め方自体も
いささか傲慢な気がしないでもない。

なぜなら、昔のお見合い結婚の有り様でもおわかりの通り、そんな特徴がなくても結婚はできるし、結婚生活も送れていたはずだからだ。

そしてまた私も含めて、運命とか出会いを誰も完璧にわかるわけがない。

一番良いのは、
「運命に対して謙虚であること」
「神様に愛される性格であること」
ではないだろうか?

運命の人だと思って結婚したりした人で仲良くやっている人も多いけれど、反面別れる事だって多い。
だから離婚率だって高いわけだ。

運命は神様が作るもの。
それに備えて謙虚になり、神様に愛される心の有り様を持ち続けること。

抽象的かもしれない。
けれども運命の出会い、再会を果たした女性にとってこれが一番大切だと感じるに違いない。

櫻井雅子

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